2012年2月19日
飯舘村で私が最初に出会った猫「ピンキー」
人の営みが消え時間が止まったかに映る庭に姿を現した彼女は、まるでパラレルワールドから迷い込んできたようでした。
はじめて福島の被災地を訪れた日
私がはじめて飯舘村の犬猫を訪ねたのは2012年2月。
話は3ヶ月遡ります。
2011年11月、私は一度福島県の被災地を訪れました。
犬猫が取り残されていると知ったばかりで、私はとにかく自分の目で見なければの思いでした。
警戒区域で活動する犬猫レスキューのボランティアチームに同行し、飯舘村の東に位置する南相馬市へ。
事故を起こした福島第一原子力発電所から20km地点の検問でボランティアチームを見送った後、私は津波の被害を受けた地域を回っていました。
人けの少なさ、行き交う警察と自衛隊車両の多さ。
見渡す限り破壊された建物や車、施設の壁には背丈より高い位置まで泥がこびり付いていました。
ここで人が亡くなっている。それが、ひと目でわかる津波の傷跡。
海岸線から1キロか2キロか、かつて人々が暮らしていた場所に打ち上げられた漁船。
カメラを手に肩を落とす私の傍らに、地元の方が車を止めました。
「何やってるんだ?ここでたくさん人が死んでるんだぞ」
当時、私はスポーツカーに乗っていました。もしかしたら派手な服を着ていたかもしれません。
地元の人からしたら、興味本位の冷やかしで写真を撮っている奴に見えたかもしれません。
「こんなに酷いとは思っていませんでした」
私が暮らす東京では、日常がほぼ戻っていました。
被災地と東京とのあまりのギャップに混乱しました。
被災地にはあの日から1歩も前に進んでいない場所がある。
私は福島に再び足を運ばなければと思いました。
再び福島の被災地へ・はじめての飯舘村
そして、年が変わり2012年2月19日。
私は、福島の被災地を再訪しました。
その日が飯舘村の犬猫を訪ねた最初です。
なぜ、犬猫なのか?
当時から私は猫と暮らし、カメラマンとして猫の撮影もしていました。
犬猫が避難区域に取り残されたと知ったとき、現地へ行って犬猫の姿を撮らなければとの想いが自然に湧いてきました。
カメラマンとして事実を伝えることを超えて、犬猫のために自分にも何かできるかもしれないとも思ったためです。
それまでの私は、放射能が怖くて福島へ向かおうとさえ思っていませんでした。
震災や原発事故で被害を受けた人々や放射能被害は、多くのメディアや著名なフォトジャーナリストの方たちが取材をしていました。
問題が余りにも広く大きく、カメラマンになって数年だった私には、とてもとても扱えるものではないとも感じていました。
そして、なぜ飯舘村の犬猫だったのか?
それは、飯舘村が誰でも立ち入れる場所だったからです。
警戒区域に入るには政府の許可が必要でした。
そして、取材や犬猫レスキューを理由にした入域は認められていませんでした。
余談ですが、福島再訪までに時間を要したのは、雪道に備えてスポーツカーから4WD車に乗り換えたためです。
原発被災地で最初に出会った犬の親子
ボランティアチームに同行し、最初に辿り着いたのが犬の親子「レモン」と「ボス」。
当時はまだ飯舘村の犬猫にご飯を運ぶボランティアは少数でした。
犬たちにとって、ボランティアはよそ者。
息子のボスは数メートルの距離から探るような視線を送ってきました。
一方、遅れて登場した母犬レモンは、飼い主が置いていったご飯を頬張りました。
玄関脇の壁には「いつもありがとうございます」の張り紙。
飼い主がボランティアに宛てたメッセージです。
飼い主は、飯舘村が結成したパトロール隊(いいたて全村見守り隊)に参加しており、1日おきに飯舘村に戻っていました。
パトロール隊は、村に臨時職員として採用された避難した住民で構成され、24時間体制で村内を回っていました。
中には犬猫にご飯を与える方もいて、一戸一戸を訪ねるパトロール隊は、犬猫にとって心強い存在でした。
ボランティアにとっても、パトロール隊の方たちは犬猫の情報を提供してくれたり、困りごとがあれば力を貸してくれたりとありがたい存在でした。
原発被災地で最初に出会った猫
1年近く手の入っていない庭は荒れていました。
窓越しに見えた洗濯物が、つい最近まであった暮らしの痕跡を見せつけます。
そして、膨れ上がる放射能への恐怖。
庭の風景に目を奪われた私は、彼女の静かな登場に数秒気が付きませんでした。
「ピンキー」は、尻尾を立て私を歓迎してくれました。
餌場へ私を誘う嬉々とした彼女の後ろ姿に、ため息。
ピンキーの仕草は、私の飼い猫を思い出させます。
家の猫たちと変わらぬ命が、人が住めなくなった場所で生きている。
「もし自分が飼い主だったら」
心が潰れそうな現実が心に刺さりました。
ピンキーはその後間もなく保護されました。