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猫の餌場

原発被災地の犬猫は、なぜ残されどう生きたか・福島県飯舘村

原発事故被災地の犬猫と言えば、原子力発電所近隣に取り残された犬猫を思い浮かべる方が多いと思います。
そこでは数日で帰れると思いバスに乗り込んだ住人が、そのまま長期間自宅に近寄ることさえできなくなりました。
そして数多の悲劇が起こりました。

飯舘村の犬猫が辿った道は、原子力発電所近隣とは違っていました。
犬猫600から700頭が、飼い主の避難後も飯舘村に残されました。
そして、6年に及ぶ避難期間、多くの犬猫がそこで生き続けました。
飯舘村の犬猫が、こうした状況に置かれた事情をここでは解説します。

原発事故が福島県飯舘村を被災地にした

飯舘村は、東日本大震災で震度6弱の地震に見舞われました。
しかし、地震の被害は住人の多くが避難しなければならないほど深刻ではありませんでした。

  • 東日本大震災の地震による飯舘村の被害
    ・家屋半壊 1棟
    ・家屋一部損壊 113棟
    ・路肩陥没・土砂崩れなど 約70か所
    ・全村断水、全村停電、電話不通、携帯電話不通
    ※福島県HPおよび飯舘村HPより

海岸線から15kmほど離れているため、飯舘村は津波の被害は受けていません。

震災直後の数日、飯舘村は沿岸地域からの避難民1500人以上を受け入れています。
飯舘村は被災した人々に手を差し伸べる側にいました。
もし飯舘村の被害が地震によるものだけだったら、2011年に6509人いた居住者が、10年後1500人ほどに激減する事態は起こりませんでした。

改めて言うまでもありませんが、飯舘村に甚大な被害を与えたのは、東京電力福島第一原子力発電所の事故です。

2011年3月15日。
事故を起こした原子力発電所から放出された放射性物質が、風に乗り雨雪とともに飯舘村に降り注ぎました。
3月15日18時20分、飯舘村役場付近で「44.7マイクロシーベルト毎時」が記録されています。
これは原発事故前の飯舘村の放射線量「0.05から0.06マイクロシーベルト毎時」の745から894倍にあたります。
この日を境にして飯舘村は被災地になりました。

2011年夏に国が行った放射線量調査では、飯舘村全域で一般人の年間被ばく限度を超える放射線量が観測されました。

公衆の被ばく限度の国際基準は「1ミリシーベルト年」とされている。
この値を1時間あたりの放射線量にすると「0.23マイクロシーベルト毎時」。
屋内で16時間、屋外で8時間活動した場合として環境省が算出した値。
ガイガーカウンター
(2012年2月20日)犬たちの暮らす庭で観測された「2.76マイクロシーベルト毎時」は、公衆の被ばく限度「0.23マイクロシーベルト毎時」の12倍の放射線量

目に映らず匂いもしない放射性物質による被害は、村の風景を変えぬまま人々の暮らしを奪いました。
そして、時間をかけて村の風景を破壊していきました。

飯舘村を特殊な被災地にした距離

飯舘村は、福島第一原子力発電所の北西30~45kmに位置します。
原子力発電所から半径20kmの範囲は警戒区域となり、強制避難そして立入禁止になりました。
一方、その外側にある飯舘村は避難区域になってからも出入りが自由でした。
※一部地域を除く
そのため、飼主の多くが飯舘村の自宅に犬猫を残し、避難先から村に通いました。
避難区域になるほど放射能に汚染された場所に通った飼い主、そしてそこで暮らす犬猫。
どちらもが特殊な状況に置かれました。
放射能汚染の濃淡ではなく、原子力発電所からの距離で引かれた立入禁止の境界線が、飯舘村を特殊な被災地にしたと言えるかもしれません。

600から700頭の犬猫が飯舘村に取り残された

仮設住宅
飯舘村村民が避難した福島市内の仮設住宅

およそ200頭の犬と400から500匹の猫が、住人が避難した後の飯舘村で暮らしていました。
これだけ多くの犬猫が取り残されたのは、ペットの同行避難ができる仕組みがなかったためです。
「自分なら何があっても愛犬愛猫を連れて避難する」という想いを飼い主の多くは抱いていると思います。
しかし突然、家族と自分の命と健康に関わる緊急事態に直面し、愛犬愛猫を受け入れてくれる避難先がなければ、その想いを実行するのは簡単ではないはずです。

飯舘村に多くの犬猫が残された最大の理由は、避難先の仮設住宅や借り上げ住宅でのペットの飼育が認められなかったこと。
そして、飯舘村に自由に出入りできたことと私は考えています。
飼い主と犬猫が離れて暮らすケースが数百件単位で発生したのは、必然です。
それ以外の選択肢は、ほとんど用意されていませんでした。

借り上げ住宅(一般の賃貸物件)の中には、ペット飼育ができる物件もあったかもしれません。
しかし、そもそもペット可の賃貸物件の割合は首都圏で10~15%程度、地方都市では5~10%程度と言われています。
そして、飯舘村が避難区域になったのは4月下旬。原子力発電所近隣の住民は3月から避難していました。避難時期の遅かった飯舘村の人々は、周辺の自治体で空き部屋を見つけることさえ簡単ではなかったと言います。

そして、もし仮設住宅でペットの飼育が認められていたとしても、多くの犬猫が飯舘村に残されたかもしれません。
狭小で壁が薄く密集した仮設住宅は、いかにもペットの飼育には不向きです。
飯舘村では中型犬が多く、外飼の犬や猫の多頭飼育はそれほど珍しくありませんでした。

飼い主の避難後、犬猫たちの命はどう繋がれたか

飼い主が避難した後の犬たち
(2012年2月19日)犬たちの周りには大量のフンが放置されていた。飼い主の避難後、犬たちの住環境は荒れていた。新しい犬小屋はボランティが設置したもの。

私が飯舘村の犬猫をはじめて訪ねた日、飯舘村で出会ったのはパトロールする村民(いいたて全村見守り隊)と警察官だけでした。
犬猫が暮らす家と庭には人影はなく、その風景は置き去りにされた犬猫を思わせました。
そして、原発事故から1年2年の間は、犬猫の飼い主に会えるのは稀でした。
現地の事情を理解していなかった当時の私が抱いた疑問は、
「犬猫たちはどうやって生きてきたのか?」

飯舘村訪問を重ねるうちに、その答えが見えてきました。
犬猫によって事情は異なりますが、以下の人々が犬猫にフードを運んでいました。

飼い主
人によって飯舘村に一時帰宅する頻度は違っていました。
毎日、1日おき、週に数回、週に1回、中には月に1回や不定期という方もいました。
一時帰宅する飼い主のほとんどは高齢でした。
これは、放射線の影響を若い人ほど受けやすいことも関係していたと考えられます。
高齢の飼い主の中には、一時帰宅するための足がなく一時帰宅がままならない方もいました。

いいたて全村見守り隊
村民が参加したパトルール隊は、365日24時間活動していました。
犬猫の飼い主も見守り隊に少なからず参加していました。
当初1日のおきの勤務だったため、これに参加した飼い主は2日1度は飯舘村に一時帰宅していました。
また、見守り隊に参加している人が、隣近所の犬猫の様子を見に行くなど村民同士の協力があったと聞きます。

親戚や隣近所の人々
飯舘村は人と人とのつながりが強い場所です。
村内に親戚がいるのは普通のこと、隣近所はみな顔見知りといった具合です。
犬猫のいる庭で、親戚や近所の人が犬猫の様子を見に来た場面に何度か出くわしたことがあります。

ボランティア
2011年のボランティアの実態はわかりませんが、2012年には5から10組ほど、ピークだった2014年前半には20~25組が活動していました。
1ヶ月のうち20から25日ほどは、ボランティアが飯舘村を訪れました。
ボランティアは、犬猫の給餌のほかにも住環境の整備を行いました。

飯舘村の犬猫たちの生活環境は荒れていましたが、飯舘村では犬猫が飢えで命を落とすことはありませんでした。

猫の餌場
(2012年2月19日)
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>Call my name 原発被災地の犬猫たち

Call my name 原発被災地の犬猫たち

2014年にスタートした「Call my name 原発被災地の犬猫たち」の展示は、日本国内で20回以上、台湾、中国でも開催してきました。 2023年3月に中国で写真集が出版される予定です。 はじめて原発被災地の犬猫を訪ねてから11年余り、250回以上現地に足を運びました。2018年秋からはほぼ毎週の犬猫訪問を続けています。 この活動はみなさまのお力添えに支えられています。私の活動にご賛同いただけましたら、カンパやフードのご支援にて応援をよろしくお願い致します。